慢性的ドラマチック欠乏症

そのロマンスで救える命がある

オタクには自分がない

2024年2月18日の記録

オタクには自分がない

お久しぶりです。生きています。

メンタル系の病気が悪化したりそんな中で仕事の環境が変わってさらに病んだり流行り病にかかって1人で療養生活を送ったり散々でした。

そんな中で勝手に生きる希望にしていたコンテンツから勝手に降りました。いや、降りたくないんだけど。キャラは好きです。だから余計辛い。今までストーリーと絡めた楽曲考察(笑)とか書いてましたが、ストーリー本編が「なんとなく」らしいのでそれに頭悩ますのも馬鹿らしいなと思った途端に膝から力が抜けました。コンテンツはこれからも続くらしいので、頑張って欲しいです。好きなキャラと声優さんがいるので。

キツイ自語りが苦手な人はこの辺で振り落とされたと思うので、今まで通りキツイ自語りをします。

 

上記いろいろあり、アカウントの顔とも言えるアイコンがずっと好きなキャラだとしんどいなと思って自分で描いた推しをやめ、代わりの顔がまぁ〜見つからない。

オタク(ここではオタ活を楽しむ令和のオタクではなく好きなコンテンツがなかったとしても何かに執着をする古い意味でのオタクとする)のカメラロールって「自分がない」。長いかっこ書きの中に内包される諸君は共感できると思うが、レイヤーとかじゃない限りオタク、マジで自分を撮らない。自然な他撮りがない。あってもパネルかコラボカフェだ。自我がダメなら飯だろうが、だいたいコラボカフェかコラボ商品か概念スイーツかぬい撮りである。この辺はうまくトリミングしてやっと使える。何をするにも「何かが好きだった記憶」が自我より先行する。カメラロールを見て「○年前は××が好きだったなあ」となる。

そんなわけでとりあえずXのアイコンは不動のポケ○ン様にしたのち、諸々のSNSのアイコン整形に取り掛かっている。

流石に洒落にならない

2023年11月30日の日記

流石に洒落にならない

前回の内容が内容なので、ここで更新が途絶えると本当に洒落にならないので日記を更新しておく。

楽しいこと書きたいことはたくさんあったのだが、それをゆうに超える量の辛さが山積みになり、さらに書くことで使うためのエネルギーが余らないほど労働とかいうクソクソバカおもんなカス行為に吸い取られているので何も書けない。これまで書くこと自体をあまり苦痛に感じたことはなかったが、あれは体力を持て余していただけだったんだと自覚した。

自分はなんとも凡庸で矮小な存在である。こんなやつが一時の躁状態の時とはいえ「神絵師神字書きに憧れて媚びるだけの存在になりたくない、自分が神になればいい」とか言ってイキっていたのが本当にキツイ。そんなご高説垂れてる時間で書けばよかっただろ。そんなわけでいつまでも神にはなれない。責任を負えないからなる気もないしなりたいとも思わない。

全能感のフィルターを外して世界を正しく認識できるようになる、これが大人になるということなんだと思いつつ、自分はまだまだ取り外せないフィルターが残っているのでバカクソガキのままである。

人生の汚れ、生きてるうちに

2023年11月3日の日記

好きだけで乗り越えられないこともある

楽しかった日を思い出して戻りたいと泣かないくらい精神が安定してきたら、絶対にここに残しておきたいと強く願う楽しい旅行が終わった。

結論、燃え尽きた。

今まで頑張ってどうにか生きる理由を作ってきた。少しずつ先に目標をいくつも立てた。人と共同でものづくりをする約束もした。でもそれはほぼ全て趣味のための目標であり、(二次ではあるが)創作をする者としての自分が満たされることはあっても、それを作る自分自身の存在を自分で許容できるまでには至らなかった。私はいまだに、私の作る作品が好きだが私は大嫌いである。

推し活が生きる意味と言っても笑われることは少なくなった昨今ではあるが、それでも所詮は趣味である。離婚と違って、ジャンルを降りることに申請が必要なことはない。婚姻関係や家族関係に比べれば、趣味による今世への拘束力ははるかに低い。

約束を投げ出すことに罪悪感はあるが、耐えきれないという気持ちの方が強くなってしまった。

加えて昨日は躁状態のスイッチも入っていたため(体感的に明白なほどだった)、昨日のうちに45リットルゴミ袋3袋分の服を捨て、大好きなクロミちゃんのかわいいレターセットに遺書を書いた。

全体的に謝ってばかりの遺書で、最期まで自分はずるくて情けない人間だと思い知らされた。謝ることは防衛手段である。先に謝ることで、相手を悪者にすることが可能である。いつもこうして戦略的に被害者面ができる環境を作って生き延びてきた。だからもう、こうする以外に自己の示し方がわからなくなってしまった。

遺書には家族への迷惑をかけることの謝罪と、気遣いを受け取れなかったことへの謝罪、最後にわがままばかりの人生であったことを謝罪した。会社にも、環境は悪くなかったのにそれに適応できない、給料に見合った働きをできない自分を詫びた。そして最後に、私の人生で片手5本指でも余った数少ない信頼できる友人の名前と連絡先を記した。

最後に可愛いシールで封をして、自分の名前を書いて引き出しにしまった。書き上げた後は晴れやかな気持ちだった。

その日は結局原稿どころではなかったため寝たが、躁状態のまま1人反省していたら止まらなくなった上にこの頃毎日くる不安による吐き気が酷かったため、夜に食べた菓子パンを一通り戻してから不穏時の薬を飲んで寝た。

また朝が来てしまい今日この日記を書いているが、私の家の引き出しには世界一可愛い遺書がある。もう投げ出しても大丈夫。そう思うと不思議と昨日より世界は明るく優しく思えた。

書くべき言葉を浪費している

2023年10月31日の日記

書きたい意思も書きたい言葉もある

更新頻度がカスである。

月2更新できたら良い方になっている。

書きたいことはある。8月あたりから書きたいことは増えていくのに書けていない。

脳直で書けるかつ嫌になったら楽にすぐ消せるTwitter(現X)とかいう場所に言葉を無駄にばら撒いている。

ちゃんとした文章よりは気楽だが、全てを吐き出せているわけでもない。ただただ消化不良の抜け殻をTwitterに捨てている。

帰れ

2023/10/6の日記

毎日更新してた頃があるってマジ?

めっきり更新できていなかった。

それこそこの日記ブログを始めたのが「生存報告を兼ねて!更新途絶えたら死んだと思ってくれ」みたいな感じだったので、その定義に当てはめると私はもう数回死んでいる。

ネタがないわけではない。むしろ書きたいことに手が追いついていない。というかそもそもネタとかもなく毎日更新していたはずなのだ。何もない日は何もないという日記を書いていたはず。

今はもうなんか、無理である。

なのでもう無理なりに不定期にやっていこうと思う。

というか元々自分のための備忘録だもんね。

中層鍵垢

鍵垢を作った。

鍵垢作成自体が初なわけではない。Twitter(Xだと?知るかよ)10年選手は伊達にやっていない。ただ現行で使っていたほぼ壁打ちの気持ちで好き勝手していた粗悪な掃き溜めより、もう少しだけ人に見られることを意識したゴミ捨て場を作った。

きっかけはサークル機能の廃止と公開垢での検索避けが面倒になったが表向きだが、裏テーマ?として鍵垢きっかけで離れてくれる人を増やそうとしたというのもある。

元々自分の思想の中に「フォロワー=向けられた銃口の数」というのがある。

SNS時代ではフォロワーの数を戦力とする方々もおられるようだが、フォローボタンを一回押すだけの気軽なワンタップで仲間が増えるというのはいまだに信じられない。銃口まではいかずとも、ワンタップされて得るのは隣で手を繋ぐ仲間ではなく檻の外からお前という猛獣を見ている安全圏の客である。

そういうわけで、自分はフォロワーというものに100%良いイメージがあるわけではない。創作活動をする前の雑多垢でさえ、フォロワー500を超えるたびに超えないように定期的にブロ解を行っていた。それも「反応くれた方のみ残します><」みたいなものではなく、誰にも言わず突然行っていた。ブロ解した人を嫌いになったわけではなく、多くなったから溢れないようにしていただけである。反応くれた方のみ〜のやつはいまだに見るたびになんなんだよお前って気持ちになる。審査員にでもなったつもりか?

すごく中二病めいたことを言うが、基本的に自分を信頼していない。かといって人もそんなに信頼していない。私を好く人は基本的にセンスがないんだなと思っている。

前に「あなたにいいねされると認められた気持ちになって嬉しくなる」とお題箱にくれた人、おそらく好意で送ってくれたのだろうと仮定してもセンスがないなあと思っている。それかこういう反応をしている私を見て「調子に乗ってますわ」と嘲笑うためだと思っている。それを承知でこの返答をしている。

なので今回作った鍵垢で汚くて臭いがまだ人に見せられる範囲の内臓を見せることで、幻滅して去ってくれる人が現れるのを願っている。

馬鹿でも広がる世界がある

2023/9/17の日記

この世に見切りをつけるのはまだ早いかもしれない

麻雀を始めた。3日前のことである。

麻雀に限らず、今までボードゲーム、とりわけ手札を読み合う類の遊びが苦手すぎてずっと観戦を決め込んで避けていた。

第一にルールが覚えられない。旅行先での大富豪は大体後ろにルールを覚えている友人をつけていた。それが私のハンデとして許されるくらいには1人だと何もできなかった。

第二に読み合いができない。今〇〇のカードが捨てられたから場に〇〇はあと何枚で…とかこいつの今の発言はブラフで…みたいなやつが全然わからない。賭ケグルイなどの読み合い騙し合いが気持ちいいアニメ作品は、基本的に雰囲気だけで楽しんでいた。全然わかんねーから。

こういった理由で麻雀もルールがわからないという理由でずっと避けてきたわけだが、最近周りに麻雀をやっている人が多くなり、「これルールわかったらおもろいんだろうな〜」なネタが増えてきたから自分もやってみることにした。とりあえずよく見る麻雀アプリを入れた。

初めはボロカスに負けまくった。最下位表示ばかり見た。麻雀はクソ負けると得点がマイナスになることを知った。

そんな中で麻雀ができるフォロワーに頼み込み、オンラインで稽古をつけてもらった。というか基本的なルールを教えてもらった。チュートリアルに書いてなかったよそんなの!!!とたびたび悲鳴を上げながらなんとなく自分が場でやるべきことを理解した。

そして今日。

なんか(自分史上)すげえ点でた!

そんで初めての1位!やったーーーー!!!!

ルールがわかってからの麻雀、おもしれえ…

なんもわからずやってた時は本当に虚無だったが、概要を掴んでからは「手元に来てほしい牌」とか「今出さない方がいい牌」とかが少しわかるようになった。負けても理由がわかるようになった。それのなんと心地よいことか。

この感覚、なんか学生時代を思い出す。返却されたテストの復習をしてる時のあの感じ。思い返すと自分はあの時間が結構好きだった。あー!そういうことか!の瞬間。あれだ。

人生、まだ知らん楽しさたくさんある〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!

今まで結構なものを「自分には無理だから」で触れずに切り捨ててきたが、この世はこんなもんだと見切りをつけるのはもう少し先でもいいかもしれない。

絶対にそう思われている

2023/9/8の日記

自己肯定感なんて低くて得する事ない

自己肯定感が低い。

そのせいでの実害は死ぬほど被ってきたが、新人という免罪符が外れた後の社会人生活ではかなりそれが顕著である。

会議で何かを思っても「でも自分なんかが発言してもな」「どうせ間違ってるから黙っとこう」という気持ちが先行して「あっ、なんでもないです大丈夫です」で目線をそらしてしまう。本当は全然大丈夫じゃない。発言しなかったことによって議題がそれていく。それを見ていることしかできない。少し経って私と同じことを考えていた他の人が会議を軌道修正する。その人は評価される。わたしは主体性も意見もない手抜き人間だと思われる。

でもそれは真っ当な評価である。

会議の進行より自己保身を優先している時点で会議にとってはお荷物である。どれだけ優れたアイデアがあろうと、頭の中にしかないのならそれは存在しないと同義である。表に出していない時点で「僕が最初に考えてたのに」は無効である。

日本では謙虚であることが美徳とされるが、謙遜を超えて自己否定まで思考が至ってしまうとそれはさすがに褒められたものではない。

行きすぎた抑圧は人を無能にする。もしくは元々無能だった側面を表出させる。

おそらく自分は後者で、きっと今後もお荷物として周囲の人たちをイラつかせ、賃金泥棒として疎まれるのだろう。

ここまで書くとまるで謙虚を拗らせた悲劇のヒロインのようになってしまうので自己肯定感低い者なりの悪徳を見せておく。はいはい全部私のせいでーす!私が悪いです!ごめんなさい!!をやると脳死で原因究明議論からドロップアウトできるため、自己のプライドを犠牲にして原因究明から逃れたい時はよく使いがちである。便利だがこれをやるとどんどん周りから信頼してくれる人が減っていくのでおすすめしない。良い子はマネしないでね!